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日本葬儀の大葬列から告別式

日本葬儀の大葬列から告別式

日本の歴史において、葬儀の様式や習慣は大きく変遷しました。

江戸時代までは質素で控えめな儀式が主流で、身内だけで行われるのが一般的でした。

しかし、明治時代になると、葬儀業者の登場や葬列の大規模化など、大きな変化が生まれました。

喪服の変化や異なる宗教・文化の影響もあり、葬儀は多様性を増し、社交的なイベントとしても展開されました。

これらの変遷を通じて、葬儀文化がどのように進化し、時代と共にどのような意味合いを持ってきたのかをご紹介します。

江戸時代から明治時代への大転換

日本の歴史を振り返ると、過去においては葬儀の様式や習慣が大きく変遷しました。

江戸時代までは、控え目で質素な儀式が一般的で、親類縁者が身内だけで遺骸を運び、夜に執り行われることが通例でした。

しかし、明治時代になると、これに大きな変化が生じました。

初めて葬儀業者が登場し、白昼堂々と大規模な葬列が行われるようになりました。

この時代になると、喪服の色や葬儀の形態が変わり、かつての白から黒へと変化していきました。

また、仏式葬儀の増加や西洋習慣の影響により、日本の葬儀は多様性を増しました。

これに伴い、葬儀の規模や装飾も向上し、社交的な行事となりました。

かつては葬式組が葬儀を執り行っていましたが、明治時代に入ると葬儀社が登場し、一連のプロセスを提供するようになりました。

末期の儀式から通夜、火葬まで、これらの業者が携わることが一般的となりました。

葬列は寺に向かい、改まった服装の親類縁者が先導し、位牌や香炉、花などが祭壇に安置される様子は、当時の慣習を示しています。

そして火葬は、市内での埋葬が禁じられたことから、遠くの場所で行われることが多かった。

この時代の特徴的な点は、都市部では通夜や葬儀に多くの人々が参列し、葬儀が社会的なイベントとなっていたのです。

派手な葬列の衰退

江戸時代の禁止されていた昼間の葬儀が許可され、明治時代中期には商業階級が隆盛し、大都市での葬列が盛んに行われました。

1887年から1897年の10年間がそのピークで、明治中期の大都市限定の「葬儀の奢侈化」が、同時に大都市限定の「葬祭業者」の興隆を促しました。

この時期には、葬具の開発が進み、縦型の座棺から寝棺への進化や、柩を運ぶための輿の開発、金蓮や銀蓮といった造花、位牌輿、花車などが生まれました。

同時に、大葬列を演出するための人夫の手配業も興り、葬具提供業と葬列人夫手配業として葬祭業が始まりました。

しかし、明治30年代に入ると社会の貧富格差が拡大し、「葬儀の奢侈化」への非難が高まります。

1901年には自由民権運動家中江兆民の葬儀が、葬列ではなく日本初の告別式として行われ、1903年には路面電車の登場が大規模葬列の減少に寄与しました。

大正時代に入ると、社会的非難が増大し、大規模葬列が衰退の兆しを見せました。

野辺送りの歴史と変遷

昔の日本では、交通手段が限られていた時代に遺体を埋葬地まで搬送するのは容易ではありませんでした。

その時代において、葬列は出棺後、故人の自宅から墓地までの人の群れを指し、これを野辺送り(のべおくり)と呼んでいました。

「野辺」は「埋葬」を指し、この言葉はまだ火葬が行われていない時代からの風習を表しています。

葬儀を終えた後、近親者や地域の人々が故人の棺を担ぎ、さまざまな祭具とともに葬列を組み、埋葬地や火葬場へ向かう非常に重要な儀式でした。

野辺送りは地域によってその方法や規模が大きく異なり、伝統や文化が反映されていました。

しかし、現代においては、交通手段の発展により遺体の搬送が容易になり、葬儀のスタイルも変化しています。

昔ながらの野辺送りは少なくなりつつありますが、その歴史的な重要性と文化的な要素は忘れられていません。

過去の野辺送りは、故人の最後の旅路を大切にし、地域社会が一丸となって故人を送り出す場でした。

葬列を組むことで、人々は故人への感謝や哀悼の意を表し、共感と結束が形成されました。

一方で、現代では葬儀の形式や慣習が多様化しています。

宗教的な要素や個々の希望に応じて葬儀が行われ、一部の地域では昔の伝統を尊重しながらも新しい要素を取り入れています。

野辺送りの歴史は、我々にとって先人たちの生活や信仰、地域社会のつながりを知る一助となります。

過去と現在が交錯する葬儀文化の変遷は、故人への敬意とともに、私たちに人生と死に向き合う機会を提供しています。

社交の場となった大葬列

江戸から明治へと移り変わる時代の中で、特に富裕層を中心に葬儀文化は多岐にわたる変遷を遂げました。

これに伴い、葬儀の豪華な演出が注目を集め、新しい慣習や習慣が生まれました。

まず、生花や造花を使用した花車や、位牌を運ぶための位牌輿が登場し、葬儀がより儀式的で格式高いものとなりました。

出発時にはかごに菓子や小銭を入れ、近隣の人に振る舞う風習が生まれ、これが現代の粗供養の原型となりました。

会葬者には菓子包み、饅頭、弁当が配られ、これにより葬儀が社交の場ともなりました。

時折、配られる弁当を求めて全く関係のない人々が集まり、何度も列を作る光景も見受けられたそうです。

大規模な葬列の演出のために、千人を超える人夫が手配されることもあり、これが社会的なイベントとしての大葬列の幕開けとなりました。

さらに、葬列用の特別な衣装を貸し出す業者も登場し、葬儀が一層華やかな催しとなっていきました。

野辺送りから告別式へ

明治20年頃から30年にかけて、日本の葬儀文化は華やかな葬列が隆盛を極め、その後告別式へと変容していきました。

今でも野辺送りを実施している地域は希少ですが、その風習は一部で残り続けています。

野辺送りで使われた祭具も、形を変えて現代の祭壇に組み込まれていることがあり、その継承の様子も見受けられます。

例えば、白木祭壇の上部に残る輿(こし)の名残や、祭壇に乗せられる六灯は、かつての野辺送りの祭具の一部でした。

現代では、出棺後は迅速に火葬場に到着し、一度葬儀場を出ると再び故人との別れが叶わないこともあります。

しかし葬列は、ゆっくりと進みながら感謝の気持ちを込めて、最後の別れに向かっています。

時代とともに変わる新しい形式の葬儀

葬祭業は長い歴史の中で、人間関係や生活技術の変化に大きく影響されてきました。

明治以前、葬儀屋に相当する職業は「早物屋」と呼ばれ、急いで葬具を作って販売する仕事でした。

明治に入り、葬具賃貸業としての葬儀屋が登場しました。

明治期の東京の葬祭業者は、棺や祭壇、葬列を装飾する提灯や紙花の調達貸し出し業務に加え、火葬場や後人足の手配も行っていました。

大正初頭からは交通事情の変化により葬列の葬儀が減り、大正関東大震災後には葬列が不可能になる地域も出てきました。

大がかりな葬列の特徴的な要素が減少し、「自宅告別式」が普及するとともに、新しい形式の葬儀が登場しました。

戦後には死者への対処を専門家に任せる傾向が強まり、葬祭業者の業務は情報産業の性格を帯び、地域共同体や親族の役割が変わりました。

地域に根ざした営業から広域化が進み、葬儀は故人に関係する家族の私的行事として認識されています。

自動車の登場から祭壇の誕生

自動車の普及という新しい流れの中で、霊柩自動車の運用が始まりました。

霊柩車の運用が広がる中で、日本独自の「宮型霊柩車」が誕生しました。

宮型霊柩車が全国に広がると葬列が激減し、告別式が主要なイベントとなりました。

これに伴い、告別式用の祭壇が登場し、その中心に葬列の名残である柩を運ぶ輿が配置されました。

明治中期から昭和10年頃までの50年間は、自動車の導入、宮型霊柩車の誕生、葬列から告別式への移行、祭壇の登場といった変遷が続きました。

まとめ

葬儀文化の歴史を振り返ると、江戸時代から明治時代への大転換期には、葬儀が控え目で質素から大規模かつ格式高いものへと変貌しました。

大葬列から告別式への変遷や、野辺送りの歴史、そして自動車の普及による新しい形式の葬儀まで、時代とともに多彩な変化が見られます。

今日、葬儀は故人への最後の別れだけでなく、社会的なイベントや文化の継承の場としても存在します。

これからも葬儀文化は進化を続け、人々の生活や価値観に寄り添いながら、深い意味を持ち続けることでしょう。

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