葬儀に立ち会うことは、生と死の境で感じる深い悲しみに触れる特別な時間です。
しかし、この難しい経験が私たちにもたらす教訓は大きいのです。
この記事では、葬儀で経験する悲しみが私たちの内面に及ぼす影響と、その影響を通じて広がる新しい成長の可能性をご紹介します。
葬儀の意味
真宗大谷派東本願寺真宗会館のコラム「誰のために葬儀を勤めるのか」には葬儀の意味について以下のように解説しています。
古代、中国の人たちは死者を草むらの上に安置したそうです。そして月日が経つと肉体は風化し土に還り、骨が残ったのです。ですから「死」という漢字の左側の「夕」は残骨という意味で、骨を表しているのです。右側の「ヒ」は、人がひざまづいている姿。つまり、骨を前にひざまづいて悲しんでいる姿です。それが「死」という文字になった謂れです。
ということは、「死」は死者だけで「死」という文字になったのではなく、遺された人たちが死者に向き合って、初めて「死」という文字になったのです。つまり死者と生者によってこの文字が成り立っているのです。死者は遺された人たちがひざまづいて悲しみ、「尋ねる」ということがなければ、死者の「死」が成就しないのです。亡くなったその人の人生が成就しないのです。そして遺された人たちが死者に向き合い、骨に向き合いひざまづいて悲しんで、「生死」を「尋ねる」ところに、生者にとっての「死」が成就していくのです。
そして「死」の上と下に草を書けば、「葬」です。「弔う」です。それを厳粛な儀式として勤めてきた。そこに人間の始まりがあります。人間が葬送儀礼をしたのではありません。葬送儀礼をしたのが人間なのです。死者を悼み、これまでとこれからを今に尋ねる「儀式」なのです。 だから「誰のために葬儀を勤めるのか」ということは、死者のためであり、同時に生者のためでもあるのです。葬送儀礼を行わないのは、私たちが人間でありながら人間を失っている姿ではないでしょうか。
真宗大谷派東本願寺真宗会館のコラム「誰のために葬儀を勤めるのか」
人生に対する仏教の提案
仏教葬儀では経典が読まれています。
これは死者のためだけでなく、私たちが人生で何を大切にし、どのように生きるべきかを考える課題とされています。
簡単に言えば、これは私たちの生き方に関する問題です。
死が縁となり、葬儀を通して経典が生まれました。
生きることを自分の望む通りに考えるなら、思い通りに生きればいいのです。
しかし、「死」という視点からは、予測通りにはいかない現実と終わりがあることを理解する必要があります。
老いたくない。
病気になりたくない。
死にたくない。
辛いことや悲しいことは避けたい。
そう考えているからこそ、家族の安全や商売繁盛を祈る儀式が行われています。
これは私たちの都合に合わせ、不安を取り除くためのものです。
しかし仏教の教えは
死や病気、老い、社会の中でどう生きるべきか?
上手くいかないときは、それをどう受け入れて生きていくか?
…という問題提起なのです。
日本の葬儀は仏式が主流です。
しかし、仏教の教義そのものに関心がある人は少ないのではないでしょうか?
仏教の知識はないけれども、ただ慣例に従い葬儀会社にすべてを託していることが、葬儀に対する迷いと混乱が生じているのです。
多死社会から現代へ
他者の死を目の前で見ることと、それが自分にも関わる状況との間には乖離があるかもしれませんが、長い間多死社会で生きてきた歴史があります。
最近では感染症の恐怖を経験していますが、それでも昔の多死社会と現代の生活は異なります。
死の恐怖は常に存在していたため、他人の死が自分にも関係することは不思議ではありません。
死の理解は他者を通じてしか得られません。
言い換えれば、死という概念を理解するには他者との「共同性」が必要であり、他者の死を認識し、その際に感じる不安や悲しみといった感情は切り離せません。
しかし、葬儀は遺体の処理を通じてこれらの感情を乗り越える手段となっています。
現代の葬儀:無縁の問題と簡略化の傾向
この悲しみを乗り越える手段が葬儀、つまり葬送儀礼です。
特に日本では、仏教の宗教的な要素とともに、家制度と祖先祭祀が結びついて葬儀が行われてきました。
しかし、戦後の都市部では核家族が増え、葬儀に関わる地域の縁者が少なくなりました。
これにより、伝統的な葬儀の維持が難しくなりました。
一部の家庭はなんとか伝統的な葬儀を続けますが、葬儀に必要な葬具などの手配が難しくなり、
それを補完する形で葬儀会社が一般的になりました。
1990年代以降、社会の個人化と少子化が進む中で、現代の葬儀や墓にまつわる「無縁」の問題も浮上し、葬儀はますます簡略化・小規模化されるようになりました。
社会構造と葬儀の関連性
その中で注目されるのが「家族葬」で、これは以前の密葬と似た形式を持ちながら、「家族葬」という名前が温かいイメージを与え、急速に人気を集めました。
その後、「一日葬儀」が登場し、更には全ての儀式を省いた「直葬」も現れました。
2000年以降、孤独死が注目を浴びています。
これは社会の個人化が影響しており、葬儀の個人化や縮小を促進していると言われています。
多くの人が病院で亡くなり、死のプロセスが外部の専門家に依存する傾向が強まっています。
その上、親族がいても、葬儀を支える人が減少し、意識の変化から葬儀の必要性に疑問を感じる人も増えています。
しかし、歴史の中で非常時以外に葬儀が行われない文化は存在しません。
これが人間と動物の違いであり、人間は死を慮ることができるとされています。
ただし、自分の死を見届けることができないため、他者の死から自身の死を想像し、死という概念を理解していくのです。
この死に対する意味づけと、死を受け入れるための儀式が葬儀なのです。
葬儀がもたらす人生の変化
身内の誰かが亡くなることで、自分の心や家族の生活、社会の状況が大きく変わります。
この変化を理解しやすくしてくれるのが葬儀なのです。
例えば、父親が亡くなった場合、悲しんで立ち直る人もいますし、自分がしっかりしなければと成長する人もいます。
葬儀は悲しみを癒すだけでなく、変化によって生じる困難や課題への認識、そしてそれらに共に取り組む家族や親族との絆を再確認する儀式でもあります。
これによって、未来に向けて正しく進むための準備が整うのです。
葬儀が提供する新しい始まり
しかし、その奥には新しい始まりへの可能性が広がっています。
失ったものに別れを告げ、未知の可能性が広がり、人生が再生する瞬間です。
葬儀は過去の章を閉じるだけでなく、未来への扉を開く鍵でもあります。
過去の経験から学び、新しい旅に向けての準備が整います。
また、葬儀は家族や友情の絆を再確認し、深める場でもあります。
共有される悲しみと支え合いが、新しい始まりに向けて強い絆を生み出します。
喪失を通じて人間関係がどのように変わり、新しい形を見つけるか、そのドラマを描きます。
葬儀を通じて喪失に向き合うことで、自分自身が新しく再定義される瞬間があります。
失ったものから得る洞察が、内なる成長を促し、新しい人生への視野を広げます。
そして、葬儀が提供するのは新しい始まりへの希望の光です。
終わりが新しい始まりの出発点であることを理解し、その光に向かって前進することが、真の成長と新しい始まりへの鍵となります。
まとめ
葬儀は終わりと始まりをつなぐ特別な瞬間であり、喪失を通じて得られる教訓や成長のチャンスが潜んでいます。
終わりが新しい始まりの出発点であることを理解し、悲しみを共有することで人間関係が深まり、内なる成長がもたらされます。
喪失を通じて見える新しい人生への視野に向かって、前向きなステップを踏み出していきましょう。