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日本古代の葬送儀礼まとめ

日本古代の葬送儀礼まとめ

豊かな歴史のなかで形成された葬送儀礼が、現代の日本文化にどのように影響を与えてきたのでしょうか?

古代の日本における葬儀儀礼は、歴史と文化が交わり、深い意味が込められたものでした。

この記事では、喪葬令や殯などの古代の葬送儀礼にフォーカスして、その中で明らかになる日本の文化や伝統の変遷をご紹介します。

服喪

古代の日本において、「服喪」は故人への深い哀悼の念が込められ、慎んで送り出す儀礼として根付いていました。

喪服は特別な衣装で、故人の世界への旅路を尊重し、敬意を表すために身にまとわれました。

この服喪の期間中は、遺族や関係者は一般的には一定の期間、社会的な活動から遠ざかり、喪に服すことが求められました。

服喪の期間は個々の家庭や身分によって異なりましたが、通常数十日から数ヶ月にわたることが一般的でした。

この期間、遺族や喪主は日常の生活を控え、悲嘆にくれる時間を過ごしました。

また、服喪の際には特別な料理が用意され、喪家に訪れる人々にも供されました。

これらの儀礼を通じて、故人への敬意を示し、冥福を祈るとともに、遺族や関係者に慰めや励ましをもたらす役割も果たしていました。

喪服や葬儀儀礼は、当時の社会構造や価値観に基づき、故人を大切にし、尊重する文化が根付いていました。

また、これらの儀礼は家族や社会全体で行われ、故人の霊魂が安らかに旅立てるよう祈る共同体の一環ともなっていました。

このような古代の儀礼は、後の時代にも影響を与え、現代の葬儀文化にも受け継がれています。

歴史を通じて形成された儀礼や習慣は、文化の変遷とともに変化しましたが、故人への畏敬の念や冥福を祈る気持ちは時代を超えて受け継がれています。

喪葬令

古代の日本社会は、中国の儀礼制度を参考にしつつも、独自の要素を取り入れて独自の文化を築いていました。

喪葬令は特に重要な法令であり、喪家の儀式や服喪の規定を詳細に規定していました。

これらの法令が存在することで、古代の葬送儀礼において基本的なガイドラインとなり、社会全体で共有された価値観や儀礼が形成されていったのです。

喪葬令は、律令法の一環として制定され、故人や遺族に関する様々な儀礼や規定を含んでいました。

特に、服喪についての規定は非常に詳細で、遺族がどのような服装をし、どのくらいの期間喪に服するかが具体的に定められていました。

これらの服喪の儀礼は、故人への哀悼や冥福を祈るとともに、社会全体での秩序を保つ重要な役割を果たしていました。

また、喪葬令が規定する儀礼は、単なる形式的なものではなく、社会の中での役割や階級制度、人間関係にも深く結びついていました。

服喪の期間や形式は、故人の身分や地位に応じて異なり、喪家の社会的な地位を示す一環ともなっていました。

これは、当時の社会構造や価値観が、葬送儀礼を通じて表現されていたことを示唆しています。

このようにして、古代の喪葬令は単なる儀礼の枠を超え、社会全体における秩序や倫理、人間関係にも影響を与えていたのです。

これが後の時代にも受け継がれ、日本の葬送儀礼や文化形成に大きな影響を与えることとなりました。

殯(もがり)

殯は、古くは魏志倭人伝にも言及があり、日本の伝統的な葬儀習慣です。

通常、高位の方を対象にし、死後に即座に埋葬せず、遺体を棺に入れて一定期間仮安置します。

特に天皇の場合、その規模は大きく、殯宮や殯庭と呼ばれる施設が整備され、供物や儀式が行われます。

殯の起源には二つの理由があります。

一つは故人の復活を望む中で、遺体の変化を目の当たりにしてその願いを断つこと。

もう一つは故人の祟りを恐れ、時間をかけて鎮魂を行うことです。
これらの感情は同時に存在し、時が経つと共に遺族が死者の死を受け入れる過程になります。

殯は故人と一定の期間を過ごすことで、故人を偲び、現実を受け入れる儀礼とされ、これが後の通夜に繋がったとも言われています。

殯の慣習は広く知られ、喪屋が墓地に作られ、墓が信仰の対象となりました。

これにより、殯は生活から離れ、埋葬までの期間から葬式や年回忌などの行事へと移行していったのです。

葬送儀礼の変遷が見せる文化の多様性

一方で、喪葬儀礼は律令国家の支配秩序を構築する上で重要な役割を果たしていました。

国家の法典である律令には、死者への供物や儀式に関する規定があり、これが社会全体で守られていました。

中国の礼制を参考にしつつも、日本独自の文化や価値観が儀礼に反映されていたのです。

ただし、喪葬令には限界も存在していました。

実際の生活との兼ね合いや混乱が見られ、律令法の実効性には限界があったことも指摘されています。

服喪は儒教思想に基づくものであり、追善仏事と結びつくことで、葬送儀礼の様相は時とともに変化していきました。

古代の葬送儀礼は、豊かな歴史や文化が反映されたものであり、それが現代の日本の文化や習慣にも影響を与えています。

皇室の葬儀などで見られる厳かな儀式は、古代から続く伝統の一端を感じさせます。

しかし、時代とともに変化し続けた葬送儀礼の姿を知ることで、我々の文化や伝統がどれほど多様で変遷してきたかを理解できるでしょう。

追善供養

追善供養は、この世に残された人が故人の成仏を願って捧げる仏教の儀式です。

故人を思い、仏壇を拝んだり、お墓参りをしたり、僧侶を呼んで法要を行ったりすることで、成仏への道が開かれるとされています。

葬儀から追善供養へ

葬儀の際の「喪主」から、追善供養の際は「施主」へと変わります。

法要の案内や僧侶の手配、法要当日の進行役など、これらはすべて施主が担います。

中陰供養

中陰供養は、故人が亡くなってから7日ごとに行われる法要で、初七日から四十九日目に「満中陰」として大きな法要が行われます。

最近では簡略化され、四十九日法要は一般的に納骨と同時に行われます。

年忌法要

年忌法要は、故人の命日に合わせて行われる法要で、一周忌から三十三回忌まで続きます。

最近では遠方に住む親族が多く、一回忌や三回忌が法要として主流になっています。

お墓参り

春明のお彼岸やお盆、年末年始など、普段のお墓参りも追善供養の一環です。

お墓の形式と火葬の普及

最初のお墓は縄文時代に登場し、おおよそ約15000年前から2300年前までの縄文時代にさかのぼります。

当初は遺体を穴に埋葬する形式で、霊魂と肉体の区別が示されました。

弥生時代になると遺体は甕棺に収められ、埋葬の形式が整ってきました。


古墳時代には大規模な古墳が権力者や貴族のために造営されましたが、庶民のお墓は縄文時代や弥生時代とあまり変わりませんでした。

平安時代には仏教の影響で貴族階級での火葬が一般的になり、お墓が小規模化しました。

鎌倉時代以降、仏教が一般庶民にも広まり、火葬と土葬が行われました。

江戸時代には土葬が主体となり、お墓の形式が整備されました。

武士のお墓には墓石や卒塔婆が設置され、これが現代のお墓の原型となりました。

明治時代に入り、寺請制度の解消や火葬の一般化によってお墓の形式が大きく変化しました。

墓地も宗教に縛られず、公共のものが造られました。

明治時代以降、現代のお墓の形式が確立され、火葬が一般的になりました。

葬列

葬列は、故人を柩に納めて墓地まで運ぶ行事や、その行進のことを指し、「野送り」や「野辺送り」とも呼ばれています。

今では葬儀会館や霊柩車が一般的ですが、以前はこれらが存在せず、自宅で葬儀を行い、手作業で柩を運び、土葬や火葬が行われていました。

昔の葬儀では、葬列が最も重要な儀式でした。

通夜や葬儀の儀式も大切ではありますが、全員が参加し、大名行列のように故人を墓地まで運ぶ葬列が、葬儀のメインイベントでした。

葬儀や葬列の準備は、村人たちが協力し合って行われました。


不幸があった家庭では、死の穢れを防ぐために急いで喪服を着て、家に籠り、故人の供養に専念しなければなりませんでした。

そして、親族や同じ地域に住む村人たちが力を合わせ、柩の製作や葬列に必要な準備、食事の用意、土葬のための穴掘りなど、役割分担しながら葬儀を進めていったのです。

まとめ

この記事では、日本の古代における葬儀儀礼にフォーカスして、死者を偲び、敬い、送り出す様々な儀式をご紹介しました。

豊かな歴史と文化が交わり、形成されたこれらの儀礼は、現代の日本社会にも深く影響を与えています。

中国の儀礼制度を取り入れながらも、日本独自の価値観や文化が色濃く反映され、喪葬令という法令が葬送儀礼の基本的なガイドラインとなっていた一方で、律令法の実効性には限界があり、喪葬令の厳格な儀礼が日常の様々な事情に対応できませんでした。

この柔軟性と厳格さのバランスが、故人を尊重し冥福を祈る儀式が時とともに変遷していく一因でした。

儒教思想に基づく服喪も、仏教との交わりで多様な価値観や宗教的な要素を取り入れ、葬送儀礼は変化し続けました。

現代の日本社会も、これらの古代の儀礼に根ざし、進化しています。

歴史と文化が紡ぎだす深層の儀式を理解し、これに新たな価値観と敬意をもって接することで、私たちは未来に向けてより豊かな社会を築いていくことができるでしょう。

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